ラジオからとんねるず
1986年「ラジカセ」を手にいれた。
東芝「シュガー」
▲原田知世が眩しいぜ!
▲東芝シュガー RT-SW7
自分だけのオーディオが堪らなく嬉しかったのを覚えてます。
とは言っても音楽はそこそこで、ラジオばかり聞いてました。
私のルーティーンはKBC「パオ~ん」から始まり、とんねるずの「二酸化マンガンクラブ」そして「オールナイトニッポン」でした。
中でも「とんねるずのオールナイトニッポン」に、ドはまりしてしまいました。
初めは「オールナイトニホン」と言っていましたが、美空ひばりさんの「貴!ちゃんと言わないとダメ。」から「オールナイトニッポン」と言うようになりました。
前半はとんねるずの二人がこんな事があった、あんな事をしたと爆笑しながらしゃべる訳です。
中盤以降はハガキ職人の出番です。
職人たちのネタのぶつかり合いでした。
最高に面白く、各コーナー回を追う事にどんどんヒートアップしていきどんどん容赦がなくなってくるのが特長でした。
本当に爆笑爆笑で、翌日は学校であーだこーだと盛り上がる訳です。
ですから
▲おいにい1と2
捨てられないのです。
今でも覚えているのが確か、リスナーに電話を掛けるコーナーが有りました。
電話が繋がるとリスナーから隣に面白い奴が居るとの事。
どれ位面白いのかとんねるずが訪ねると
「名前がキナセです」
一同爆笑🤣
私も爆笑🤣
二人に替われ替われと言われ「キナセ」くんが
電話口で
「キナセです」
一同爆笑🤣
結局そのままキナセくんが喋りきりコーナーは終了しました。
この日も締めは勿論貴さんの「寝ろ!」でした。
そういえば、貴さんがボイコットして憲さんが一人でやった回もあったなぁ。
コメディアン志村けんと昭和の子供
本日、コメディアンの志村けんさんが御亡くなりになったとの報道が流れた。
まさかと思いニュースを見たが本当だった。
コメディアン界の巨星が旅立ちましたも
鳥肌が立った。
涙が流れました。
他人の事の様に思われた「コロナ」が急に身近で起こりえる事であると認識した。
まだ早いよ!志村さん💧
長さんも「お前もう来たのかっ❗」ってビックリするよ。
志村さんと言えば「ザ・ドリフターズ」のメンバーであることはご存知のことと思います。
経歴等はWikipediaに詳しいので宜しければ調べてみて下さい。
「ザ・ドリフターズ」「志村けん」が昭和の子供に与えた影響は計り知れません。
思いつくまま挙げても
「東村山音頭」
「ヒゲダンス」
「からすの歌」
「バカ殿」
大きな声で「カーラぁ~スー❗」と良く歌って下校してました。
クラスのお楽しみ会で、必ず誰がヒゲダンスをやってました。
ジュディ・オングの真似をする子供が爆発的に増えました。
バカ殿の中のお決まりの台詞で
「はたまたやーやっ。すからずんばぬーかっ!」
お笑いの化け物ですよ。
そして間違いなく昭和で一番愛されたコメディアンの一人です。
今までお疲れさまでした。ありがとうございました。
合掌
昭和アーケードゲーム 禁断の荒業(悪用厳禁)
ゲームセンターは勿論、デパートの屋上や駄菓子屋には一回10円~50円のアーケードゲームが当たり前の様に並んでました。
1978年TAITOから「スペースインベーダー」
日本の100円玉の流通枚数を増やした伝説のゲームです。
翌1979年には「ギャラクシアン」の登場!インベーダーと違い敵が降ってくる。
「ハイパーオリンピック」では定規使ってをビシバシやっておりました。
個人的には、マイナーですが「ごんべえのあいむそ~り~」がお気に入りでした。(キャラが田中角栄とタモリさんに激似)
▲ごんべえのあいむそ~り~
▲テーブル筐体
▲アップライト筐体 通称 駄菓子屋筐体
当たり前ですが1970年後半から1980年中盤のアーケードゲームは、北九州市もお目にかかることはありません。
もしかしたら、喫茶店にひっそりあるかもと言うレベルです。
もう一度会いたいですね(⌒‐⌒)
さて、そんなゲームが現役真っ只中の我が小学生時代。
「蛇口ひねったらジュース出てこないかなぁ」とボケ~っとしていたある日のこと。
悪童Aくんがで鼻息を荒く、しかし小声で話しています。
「タダで何度もゲームが出来る。」と言うのです。
そんな夢みたいな事がドラえもん以外で出来るのかと話の輪の中に入りました。
やり方は簡単、電子ライターを使ってある部分をカチカチやるだけ。
Aくんのビーバップな兄ちゃんBくんが検証済みとの事で、俄然信頼性が増しました。
その日の放課後、いつもの駄菓子屋に集まり、おばちゃん以外の人が居ないのを確認。
おばちゃんの目を盗んで早速トライしました。
いざカチカチっと!
なんとクレジットがガンガン上がる‼️
「うおー!」得意気なAくん。
テンションぶち上げの小学生多数。
しかし、この技には致命的な欠点がありました。
後日、Aくんその他大勢が別の駄菓子屋に行きこの技を実行した所、カチカチしたゲーム筐体以外の筐体が全てリセットされたそうです。(コンセント共有)
駄菓子屋はパニック。
ビーバップ中学生がキレて北九弁で怒鳴り散らしていたらしい。(例 誰がやったんかちゃっ! くらすぞきさんっ!)
友達曰く「寿命が縮まった」らしい。
「寿命はまだ心配せんでいいやろ」と、ツッコミたかったが面倒くさいので止めた。
さらば!週刊少年ジャンプ そして、ありがとう
週刊少年ジャンプとコロコロコミック、当時の小学生(私も含め)は夢中で読んでました!
▲コロコロ創刊号
▲少年ジャンプ創刊号
ゲームをすれば「炎のコマ」が頭をよぎり!
「水魚のポーズ」で集中!集中!
▲ピシッと決まった水魚のポーズ
休み時間は「キン肉バスター」「パロスペシャル」
小学生は、元気が服着て歩いてるようなもんだからガシガシ真似してました。
貸本屋さんもまだまだあって、単行本は一冊50円で借りて回し読みしていました。
実は少年ジャンプですが、九州は関門海峡渡るのに時間が掛かるのか、発売は毎週火曜日でした。
そんなジャンプを33年間買ってましたが、やめました。
それも以外とあっさり止められました。
理由は続きが気になるマンガが無くなったから。
思えば何時からか、あれあれ(?_?)
何かジャンプ変わった?
前ほど熱くないぞ。
と感じる様になりました。
昔は一冊読むのに一時間以上掛けていたのが、気がつけば読むのに30分掛からなくなっていました。
星矢
挙げればキリがありません
夢のような雑誌でした
ありがとうジャンプ
一番好きだったマンガです
ガンプラの洗礼と井田博氏とホビーランドMA
私が小学二年生の時に「ガンプラ」が発売されました。
▲初代 ガンプラの代表選
兎に角流行りました。当時の小学生は、ほぼ全員ガンプラの洗礼を受けていたと思います。
TVではガンプラのCMがゴールデンでガンガン流れてましたね。
当時北九州市八幡東区荒生田のチンチン電車道路沿いに「ホビーランドMA」というプラモデル屋さんがありました。
地元の小学生は、ほぼここでガンプラを購入していました。
人気は「ガンダム」「シャア専用ザク」「グフ」、その反対に「ホワイトベース」や「ムサイ」は今一人気がなく、持っているのはお坊っちゃんくらいでしたね。
親には「シンナー臭いから窓開けてやれっ!」と言われながらも、みんなでワイワイやりながら作って楽しんでいました。
ところで、最近知ったのですが、ここ「ホビーランドMA」のオーナーが井田博さんと言う方なのですが、この方日本のプラモデル業界ではめちゃくちゃ有名な方らしいのです。
日本初の模型専門雑誌「モデルアート」の創刊者であり、プラモデルを日本に定着させた1人でもあります。
ビビりましたよ。多分子供の頃会ってます。
エプロン着けて、いつもニコニコしたおっちゃんでした。
当時はネットは無く、友達からの何処の店に何が入荷するなんて情報はプラチナもの。
みんな必死な思いで手に入れたガンプラは宝物でした。
でも不思議なんですよね。
あれだけの熱い想いで買った「ガンプラ」ですが、何処に行ったんだろ⁉️
北九州市の昭和50年代小学生の遊び
小学5年生の時「ファミコン」が発売されました。
▲名機 ファミリーコンピューター
これでただでゲームし放題だぜ!と子供達は、私も含めみんな胸踊らせましたもんでした。
買って貰った子供は、クラスのヒエラルキーポジションが、ぐ~~んとアップしました。
バンゲリングベイの2コンマイクに向かって「あーっ!」と叫んでいたのを思い出します。
しかし変なもんで、タダで出来る「ドンキーコング」「スパルタンX」を家で散々やって、巧くなったらゲームセンターで金払ってやるのね。
みんなに見せびらかす為に。
どーだ~みたいな感じで。
さて、ルーティーンはこうでした。学校が終わる。ファミコンを持っている子の家に集合。高橋名人のいいつけを守りファミコンを一時間。その後は外に行くというのが定番でした。
外では野球、サッカー、ドッチボール、ナンとか鬼 等々。
だからボールの投げ方なんて巧い奴を見て自然に覚えていました。
自転車も同じ要領で乗れるようになりました。
ところで北九州市の遊びで、他の地域出身者に誰一人通じない遊びがあります。
「ろくむし」と言う遊びです。
北九州市の八幡以外で知ってる人いるかなぁ?
昭和の駄菓子屋「仁義なき戦い」
昭和50年代後半には駄菓子屋が沢山ありまして、小学生時代の私も、毎日小遣い50円を握りしめ通っていました。
使い道は
30円のダブルソーダorコーラアイス
10円のあめちゃんorチロルチョコ
そして、当たれば30円のお菓子交換札が貰える10円ゲーム。
ゲームはアーケードゲームか、10円玉が右や左に行ったり来たりするあの「新幹線」です。
▲新幹線
▲残念なダブルソーダ
無茶苦茶面白くて、覚えたての◯みたいに夢中でやってました。
そんな中に異常に「新幹線」が上手い同級生のM君小学四年生がいました。
みんなに「ここに来たら弾くんだっ!」とレバーの位置を熱くレクチャー!
途端にこちら側の勝率がグーンとアップしました。
そうなると、おばちゃんも10円ゲームの入れ替えサイクルを上げ対抗です。
だがM君も攻略の手は緩めません。新台を次々に撃破していきます。
そんなイタチごっこの最中、ついにあれが導入されました。
「パイパイ45」
▲名機 パイパイ45
今も同窓会で盛り上がるパイパイ45。
グッと来るネーミングパイパイ45。
さて、筐体サイズは「新幹線」とほぼ同じ。
ゲーム性は1つのクルーンと2つのチューリップ、そして最後の「1、3、5」のどれかに入ればOKです。おめでとう🎉
では、なぜそんなに人気があったのか?
その最大の魅力はMAX45枚払い出しの爆発力でした。
45枚払い出しの条件は2つ目と3つ目のチューリップ上部に3倍と書かれたチャッカーの通過です。
両方通過で3×3=9倍
最後で5に入れれば、5×9=45枚となるわけです。
1枚で10円のお菓子と交換ですから、なんと
「450円」のお菓子と交換出来るのです。
これに男子は痺れるわけです。
450円と言えばどえらい大金です。
故に「パイパイ45」の前は、鉄火場状態でした。
だがしかし、パイパイの正体は魔性の貯金箱マシーンでした。
しかし結果を言うとM君があっさり攻略成功。
10回に1回は45枚出してました。
そして、45枚出した時は「お恵み」と称し、大盤振る舞いしてくれました。
そして時が経ち、定期的に開催されるM君のお恵みタイムの最中の事でした。
おばちゃんが旨そうにタバコを吸いながら一言言いました。
「M君は今日からパイパイ45したらいけんよっ!」
突然のバッサリ宣言です。
大人ってずり~なぁと思ったもんです。
その後、駄菓子屋の10円ゲームはルーレットタイプ「ピカデリー・サーカス」になりました。
対角線の攻略は効きませんでした。
時代はアナログからデジタルへ、テーブル筐体ゲームへと流れていきます。